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研究資料明細
[摘要] :
本稿主要分析日治後期台灣原住民的社會教育。從日本統治台灣開始台灣總督府隨著台灣的情勢,對台灣原住民的「理蕃政策」也有所改變。於明治三十五年(1902)掌控全島平地的反叛力量之前,對在山地的台灣原住民採取懷柔手段。此後,慢慢變成強硬的政策,明治末期到大正初期積極的實施了武力壓制行動。明治42(1909)年到大正3(1914)年由佐久間總督主導的5年理蕃計劃為其代表。
進入昭和期之後,制定了以撫育本位的理蕃大綱,隨著政策的改變對原住民的教育方針也跟著變化。不僅針對學校教育也對社會教育產生了關注。昭和6(1931)年的「理蕃大綱」宣示理蕃的根本著重於「蕃人的教化」,昭和14(1939)年訂定「高砂族自助會會則標準」、「高砂族授產指導要目」、「高砂族社會教育綱要」,表示了指導開發上的要訣。一般認為這期間是撫育原住民最繁盛的時期。
當原住民兒童從學校教育(四年的教育所)畢業並返回沒接受日本教育的「老蕃」家族所居住的環境時,浸透著許多原來風俗習慣的影響讓這些兒童有往回走的實情。當時的政府當局也認知到社會教育為連繋學校教育和家庭教育的作用是非常的重要。本稿透過「高砂族社會教育綱要」,查明當時社會教育的實際狀態。
[英文摘要] :
本稿は、昭和時代の台湾原住民の社会教育に焦点を当てて分析したものである。領台当時から台湾総督府は、台湾の情勢と共に理蕃政策の変化が見られた。山地にいる台湾原住民への方針が懐柔手段から徐々に強硬な政策になり、明治末期から大正初期にかけては武力制圧という積極的な動きが施された。
そして昭和期に入ると、撫育本位の理蕃大綱が定められ、政策と共に台湾原住民への教育方針も色々変わってきた。学校教育だけではなく、社会教育にも注目してきた。昭和6(1931)年の「理蕃大綱」で理蕃の根本を宣示し「蕃人ノ教化」に重点を置くように、昭和14(1939)年に「高砂族自助会々則標準」、「高砂族授産指導要目」、「高砂族社会教育要綱」を定め、台湾原住民を指導開発上の要訣を示した。この間が、撫育が最も盛んだった時期と見られる。
学校教育(四年の教育所)を卒業した台湾原住民児童たちは、日本の教育を受けていない「老蕃」・家族がいる原住民社会に戻るとまた元の風俗習慣に逆戻りの実状がある。学校教育と家庭教育の繋がり役である社会教育が重要であることが明白である。本稿は「高砂族社会教育要綱」を通し、当時の社会教育の実態を究明した。